その「ルール」って必要?誰が作ったの?
最近、たまたま複数の場所で、社会構成主義、予言の自己成就、言葉が現実をつくる…などの話を聞きましたので関連して思い出した話をひとつ。
大学時代、日本酒を飲もうということで、ゼミの仲間との飲み会を開催しました。飲み過ぎ防止と、限りある資源(日本酒)の公平な分配を目的として、各自が飲んだ杯数を正の字で記録し始めたところから悲劇は始まります。
杯数を重ね、楽しくなってきたところで、現実を記録していたはずの正の字を確認したある1人が「なんだお前はまだそのくらいしか飲んでないのか!せっかくだから飲め飲め!」という"優しさ"を発動し始めたのです。
その後には、先に人の記録表へ正の字を書き足し、コップに注ぐ"予約"を"してあげる"輩が出る始末。そして正の字を書かれた方も、その正の字を目標として、飲み始める始末。杯数の記録がノルマ、規範へと変わった瞬間でした。まさに、知が現実をつくることを体感したのでした。
翌朝の惨状については記述するまでもありません。
日常においても、自分で作り上げた自分のイメージ、ネガティブな言葉、不必要な目標、必ずしも守る必要のない社会的な規範などに引きずられて無理をしていることもあると思います。
まさに、お酒で判断力を失っていたあの夜のように、単なる記録のためであったはずが、他人に書き足された正の字を規範と認識し、皆で(楽しみながらも)無理をしている状況と同じことが、日々の暮らしの中に起きているかもしれません。
うんうん悩んで考える必要はないけれど、それは他人や、むしろ自分が作り上げた不要なルールなのか、あるいは揺るぎない現実なのか、つまり本当に必要なものなのか、ちょっとだけ立ち止まって考えてみると良いと思います。
例えば、今、手を怪我している、生物学上の男性であるというような現実であれば仕方ないかもしれませんが、自分でそう思っているだけ、周りがそう言うから信じているだけ、ということも往々にしてあるように思います。
案外、世界は自由なものだと、私は思います。
プロコーチ
中村公省 Kosei NAKAMURA